(5)
芸術家と呼ばれる人間は一般的に感受性が強く、自分の感情を素直に表現する。それが『空間(建築・彫刻)』となり、『時間(音楽・文学)』となり、『存在(映像・演劇)』となるのだ。感情は時に、本人の意思がコントロールしえないものを生み出すことがあった。それを最良のものとして転化し表現しうることが、芸術家の本領であり、才能の最たるものなのだ――と悦嗣は考えていた。
今『時間』を創造しているユアン・グリフィスは、その『本領と才能』を遺憾なく発揮している。彼はリハーサルの一件から本番直前まで、かなり感情的だった。悦嗣がまともに相手をしないと見ると、なんだかんだ理由をつけて、ピアノの調律をさせた。傍らにはユアンが立っていた。こめかみには青筋が浮き、三白眼になった青い目が食い入るように悦嗣を見ていた。合間に彼が弾く本番の曲はひどいもので、マネジャーやプロモーターは気が気でない風だった。結局、「間もなく開場するから」と受け付けがあわてて告げに来るまで、悦嗣も英介も、当のユアンもステージ上にいた。
そんな状態のユアンであったが、いざ本番でピアノに指を落とすと、
「やっぱり、プロはプロってことか」
と、悦嗣に呟かせたのである。
プログラムは八曲。ノクターンにバラード、マズルカを四曲、スケルツォ、それからポロネーズである。ショパンの繊細な旋律が、端麗な指先から生み出され、存在する全ての耳を釘付けにした。
完璧なまでのテクニックで、情感たっぷりに聴かせる。特に『英雄ポロネーズ』とアンコールの『革命のエチュード』は、怒りの気持ちがそのままエネルギーになっているかのような激しさで、圧巻だった。
「そうだね。ユアンは感情を無駄にしないタイプだから、エツが言うとおり根っからのソリストだと思う。何でも自分色にしようとするから、さく也は合わないんだ」
駅弁の最後の一口を頬張って、英介がユアンのピアノの感想を言った。
二曲目のアンコールが始まる前に、悦嗣と英介はホールを後にした。新幹線の時間もあったが、しつこいユアンにまた捕まるのも面倒だったので。
新幹線に乗り込むと、二人はすぐに駅弁にぱくついた。昼食を取った後ユアンに関わってから、ろくに飲み食い出来なかったから、かなり空腹だったのだ。
「感情を無駄にしないタイプ、か。なかなか上手いな、エースケ」
悦嗣は感心しきりに応えた。英介は悦嗣と違って国語の成績が良かった。大学のレポートは遅れたことがなく、立浪教授のそれは模範論文として、学内機関紙に載ったほどだ。
「唯我独尊っぽいけど、さく也は合奏するのが好きなんだよ。音を合わせて調和を楽しむって感じかな。だから面子揃えるの、大変なんだ。技術はそこそこいるし、合わせるのに音の相性も良くないといけないから。途中で弾かなくなることもあるくらいで」
「確かに、あれに合わすのは大変だ」
「でもちゃんと、弾き分けてる。最終的にファースト(第一ヴァイオリン)に合っていくけど、それだって他のパートに相応しい音で引っ張ってくから、違和感がない。ソロはともかくデュオも、ちゃんとピアノのメロディー・パートは尊重して弾くんだ。でもユアンはそうじゃない。自分の気分が盛り上がると、相手なんかそっちのけだ。たとえ伴奏ピアノであっても。ソロ気質がぶつかり合って、調和も何もあったもんじゃない」
何かを思い出しているような英介の口ぶりだった。さく也とユアンが組んだ演奏会を、聴いたことがあるのだろう。浅いため息がセットについた。
振り返って自分はどうなんだろう。さく也と組んだのは去年の六月のアンサンブル・コンサート――悦嗣は入院したピアニストの代替だった――と、年末の母校・月島芸大での模範演奏会の二回。前者は記憶がないほど引き摺られ、後者はそうならないように必死だった。余裕なんてまるで無かった。
そしてあの埠頭で聴いた、中原さく也の無伴奏でのヴァイオリンは、悦嗣に力の無さを思い知らせた。無駄にした時間を、くやしいとさえ思わせるほどに。
相応の技術と感性。中原さく也との共通点が、自分のどこにある?
「自分はどうなのかって、顔だな?」
途切れた会話を継いだのは、英介だった。
「そりゃ、思うだろ?」
「さく也がエツ以外の伴奏で、弾く気は無いって言ったのに?」
駅弁の空箱を入っていた袋に突っ込んだ。
「ユアンなんたらを断る口実ってこともある」
英介は、苦笑った
「最初に合わせた時、さく也は弾くのを止めなかった。あの時のエツは、決してプロ・レベルじゃなかったのに。彼は『恋は盲目』的なところはあるけど、音楽には妥協しないぜ」
と言って、英介は上着のポケットを探り、携帯電話を取り出した。マナー・モードにしているそれは、震えている。悦嗣に断って、彼は足早にデッキへ向かった。
残された悦嗣は、窓の外に目をやった。明るい車内が映って、外はよく見えない。電話の相手は想像出来る。時間的に見て、何曲かアンコールを終え、控え室に帰って一息ついた頃だろう。マネジャーには演奏会が始まる前に、アンコールの途中で帰ることを伝えておいたが、ユアン本人には言わなかった。
そんなことを考えながら、窓に映る自分の顔を見るとはなしに見ていると、まぶたが重くなってきた。一日仕事で、思ったよりも疲れているのかもしれない。
「ユアンからだ。黙って帰ったから怒ってる」
ウトウトしかけた時、戻って来た英介の声に起こされた。指先で目をこすった。
「なんで怒られるんだ、まったく」
昼間のやりとりを思い出して、悦嗣は顔を曇らす。普通なら気分良く帰途につくはずだった。予定通りに仕事を終えたら、その演奏会を聴き、音に浸りながら家に帰る――いつもなら。
「二十二日のオケ・コンもエツに頼むって。それで今度こそ、まともに一曲弾いてくれってさ」
しかし今回は、一悶着あったあげく開場ギリギリまで調整させられ、終わってからも電話で追いかけられる。悦嗣に、またピアノを弾いてみせろと言う。
「この状況の元凶はエースケ、おまえなんだぞ。ユアン・グリフィスから謂われのない恨みを買ったのも」
文句の一つも出ようってものだ。
「違うね、エツが素直じゃないからだろ」
英介の応えは速攻だった。それに対する悦嗣の反応も速かった。
「どういう意味だ?」
辛らつな物言いが返る。
「言った通りの意味さ。自分の指に逆らってばかりいたから、こうなったんだ」
口元に笑みはなかった。
「エツはいつだって、音楽もピアノも捨てなかった。会社を辞めて調律師になったのが、いい証拠だ。ローズ・テールでのバイトだって、そうだ。違うか?」
悦嗣は目を見開く。
「アンサンブルの件だって、その気が全くないなら蹴ってもよかった。常識で考えたら、俺の頼みは理不尽もいいとこで、動かない指なら受けられない話だった」
「だから、それは」
英介は悦嗣に口を挟ませない。
「ちゃんと指は覚えてた。弾きたがってた。だから話を受けたんだ」
じっと英介の目が、見つめている。
「断れなかったんだ。エースケ、おまえが持って来た話だからだ。おまえが一緒に弾きたいって、言ったからだ。おまえの頼みじゃなきゃ、誰が聞くか」
話の途切れたのを見逃さず、反論する。
「違う」
それに対して、英介は笑みを作って否定した。
カッと体が熱くなった。
「違わない。おまえの困る顔を見たくなかったからだ。一緒に弾ける誘惑に勝てなかっただけだ。だって、俺は」
「おまえのことが、ずっと好きだったから…」
自分の声で目が覚めた。
悦嗣はうつ伏せになった体勢のまま、目だけで辺りを見回す。窓にかかるカーテン、点いたままの電灯、机代わりのグランド・ピアノにミニ・ソファ。半開きの部屋の入り口。全てに見覚えがある。
体を起こした。まぎれもなく自分の部屋だった。
「夢オチかよ…」
安堵ともとれるため息が吐き出される。
昨夜、遅くに部屋に戻った。ユアン・グリフィスのアンコールの途中で会場を後にした悦嗣と英介は、新幹線に乗って駅弁で空腹を満たした。それから少し話しをしている時に、英介はかかって来た携帯に出るため席を立った。彼が戻ってくる前に悦嗣は眠ってしまい、次に記憶が始まったのは東京駅だった。疲れていた二人は寄り道せず、それぞれの家路に着いた。
「かなり、リアルだったな」
だから英介が電話の為に席を立った以降は、すべて夢ということになる。
時計を見ると午前五時半を過ぎたところだった。ベットから足を下ろすと、自分が何も身につけていないことに気づく。シャワーを浴びて、そのままベット潜り込んで寝入ったらしい。夢を反芻しながら、服を着る。
夢の中の英介の言葉が、はっきりと頭に残っていた。
エツはいつだって、音楽もピアノも捨てなかった
ちゃんと指は覚えてた。弾きたがってた
「だったら何だってんだ」
そう独りごちると、ベットに座った。半開きのカーテンの隙間から、白々し始めた空が見える。目はすっかり覚め、二度寝をする気も起こらない。久しぶりに走りに…の気分でもなかった。
とりあえず寝覚めのコーヒーを入れた。
視界にグランドピアノが入る。月島芸大のピアノ専攻の合格祝いに、買ってもらったものだ。これを入れる為に、実家の悦嗣の部屋は一階に移され、防音にリフォームされた。その部屋は今、妹の夏希が使っている。
卒業して一人暮らしを始めた時に、音楽とは無関係のメーカーに就職したから、必要の無い物になったにも関わらず、引越しのリストに入れた。最初に借りた部屋はワンルームに毛が生えた広さで、半分近くをピアノに占領された。
英介の言葉通り、音楽から離れられなかった。結局、こうしてピアノを生業にしている。そうして久しく忘れていたピアニストとしての自分――大学卒業を期に封印した子供の頃の夢を、よってたかって思い出させようとする。英介も、立浪教授も、ユアン・グリフィスも、中原さく也も。
「くそっ!」
(6)
再び、ユアン・グリフィスから仕事の依頼が入った。リサイタルの翌日――悦嗣が図らずも早起きをした日の午後で、英介からの電話で、である。
「二十二日のオケ・コンの調律も、エツに頼むからって昨日の電話で言ってきたの、覚えてるか? 寝惚けてたみたいだったから、念のため電話したんだけど」
英介の話にまったく覚えがない。帰りの車中、彼が電話を終えて席に戻って来たことは、記憶に残っていないし、その電話の相手がユアンだったことも、現実では知らなかった。戻って以降は夢の中に続いていたからだ。
夢の中に続いていた――?
それにしては、リアルな夢だったことを思い出す。
英介が二十二日のことを、引き続き喋っていたが、悦嗣は別のことに神経が向いていた。昨晩の新幹線の中のことに。
「エツ?」
反応がない悦嗣に、英介が話すのを止めた。
「俺、何か変なこと、言ってなかったか?」
悦嗣が尋ねる。
「フニャフニャ答えてたよ。起きてるのか寝てるのか、わからないような感じ。なんだ、やっぱり寝惚けてたんだな?」
受話器からの彼の声は、笑い含みだった。
「こんどはまともな曲、弾いてくれって言う話も、OKしたのも覚えてないんだろうな?」
その内容も夢に出てきた。いったい、どこまで現実だったのか、だんだんと『問題発言』に近づいてくる。血の気が引く思いがした。
「覚えてない」
「ふーむ」
英介が意味深に相槌を打った。しかし何も言わない。それは気になるところだが、外れて突っ込まれるのも困るので、そのまま悦嗣は口を噤んだ。たとえ話していなかったとしても、彼は何かを感じ取ってしまうかも知れない。
悦嗣の反応がまた鈍ったことに今度は構わず、英介は話を続けた。
「とにかくユアンにはもう返事したから、二十二日はそのつもりで行ってくれよ。俺は明後日帰るから、ちゃんと通訳は頼んでく。弾くならチャイコかラフマニがいい。得意だろ? 逃げるなよ、エツ」
「エースケ」
「これはユアンのためでもあるんだ。さく也のことで寄り道しないで、ソリストとしての自覚を持たせるためにも」
「おまえはよく周りを見てるな? 高校も大学でも、俺なんかより、よっぽど部長に向いてた」
英介はカラカラと明るく笑った。
「人の欠点を探して論うのが得意なだけだ。人をグイグイ引っ張る力はないよ。人をまとめるような面倒くさい事は性に合わないし」
それに今回の事は彼のマネジャーからも頼まれている、と英介は付け加えた。中原さく也のヴァイオリンに固執するあまり、ユアン・グリフィス本人の音が損なわれるのではないかと、心配しているのだと言う。ショパンを獲ったユアンではあったが、彼のベートーヴェンを知る人間の評価は分かれたらしい。ユアンの申し出を受ける意思がサラサラないさく也のことは、さっさとあきらめてほしいのだ。
「ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう。今、ボストンにいるはずだから」
いい事を考えたとばかりに、英介の声が弾んだ。
「え!?」
「そうしたら通訳もいらないし、エツもやる気出るだろう? 効果倍増だ。連絡してみる。だからデュオって事も考えておいてくれ。それじゃ」
「ちょっと待てよ、エースケ…ッ」
返答などお構いなしに電話は切れ、無情な電子音が悦嗣の耳に残された。
悦嗣は自分の心の一隅が熱くなったことに気づいた。「さく也を呼ぼう」と英介が言った時に受けた感覚――あのヴァイオリンの音を聴ける、合わせられる。彼に会える。
「なんだ、そりゃ」
電子音に向って呟くと、クシャクシャと頭をかいた。
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